JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡した。
概要
2005年(平成17年)4月25日午前9時18分ごろ、列車は塚口駅 - 尼崎駅間の曲線で脱線し、先頭の2両が線路脇のマンション(エフュージョン尼崎)に激突した。事故は、福知山線の兵庫県尼崎市久々知の半径300mの右カーブ区間[1](塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。
事故列車は、宝塚発JR東西線経由片町線(学研都市線)同志社前行きの上り快速列車である[2]。列車番号は5418Mの7両編成で、前4両は、網干総合車両所に所属する207系0番台Z16編成(クハ207-17+モハ207-31+モハ206-17+クハ206-129)同志社前行き、後ろ3両は、同所所属の207系1000番台S18編成(クモハ207-1033+サハ207-1019+クハ206-1033)京田辺行きである。列車の前5両が脱線して、先頭2両は線路脇の9階建てマンションに激突し、先頭車は1階駐車場へ突入、2両目はマンション壁面へぶつかり原形をとどめない形で大破した(当初は状況などから2両が重なるように壁面で大破していると誤解されていた)。
事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過(オーバーラン)していた。これについて、事故が起きる前に運転士が車掌に対してオーバーランの距離を短くするように打診して、車掌が新大阪総合指令所(現在の大阪総合指令所)に対して約70mのオーバーランを8mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8mのオーバーランと発表していた。 このことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置き石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置き石や自転車などの障害物を置くといったことも相次いだ。
事故発生と同時刻には、並行する下り線に、新大阪発城崎温泉行きの特急「北近畿」3号が接近中だったが、事故を目撃した近隣住民の機転により近くの踏切支障報知装置(踏切非常ボタン)が押されて特殊信号発光機が点灯したために運転士が異常を察知し、およそ100m手前で停車して防護無線を発報しており、二重事故は回避された。事故後、現場の半径300mの曲線区間は制限速度70km/hから60km/hに(運輸省令における制限速度算式での300R97Cの制限74km/h台を5km/h単位に丸めて制定したものであるから、安全に掛かる技術的な必要性から 制限を厳しくしたわけではない)、手前の直線区間は120km/hから95km/hへとそれぞれ変更された。
事故列車は、4両編成と途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切り離す予定だった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目の運転台のある車両に列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。ただし、これが直ちに脱線時の速度を示しているとは限らない。先頭車両が脱線、急減速した影響で車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために、玉突きになって被害が拡大したものとされる。
当時、事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、マンション脇の立体駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込み、マンション1階の駐車場部分へと突入して壁にも激突。続く2両目も、片輪走行しながら、マンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に追突されたことによって、建物に巻きつくような形で大破。3両目は、進行方向と前後が逆になる。4両目は、3両目を挟むようにして下り方向(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。なお、事故発生当初、事故車両の2両目部分が1両目と誤認されており、1両目は発見されていなかった。のちに本来存在しているべき車両数と目視で確認できる車両数が一致しないことから捜索され、発見された。
駐車場周辺において電車と衝突して大破した車からガソリン漏れが確認されており、引火を避け被害者の安全を確保するためにバーナーや電動カッターを用いることができず、救助作業は難航した。また、3両目から順に車両を解体する作業を伴い、徹夜で続けられた救助作業は事故発生から3日後の4月28日に終了した。
被害
近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名[3]を出す未曾有の大惨事となった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、ほとんどが多発外傷や窒息で亡くなっており、クラッシュ症候群も確認されている。死者数において、JR発足後としては1991年(平成3年)の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を抜いて過去最大となり、鉄道事故全般で見ると戦後(国鉄時代含む)では桜木町事故(106名)を上回り、八高線の列車脱線転覆事故(184名)・鶴見事故(161名)・三河島事故(160名)に次いで4番目、戦前・戦中に遡っても関東大震災時の根府川駅被災(112名)を含めた中で7番目となる甚大な被害を出した。
のちに、事故では負傷しなかった同列車の乗客やマンション住人、救助作業に参加した周辺住民なども心的外傷後ストレス障害 (PTSD) を発症するなど大きな影響をおよぼした。
また、マンションには47世帯が居住していたが、倒壊した場合などに備えてJRの用意したホテルなどへ避難した。事故後も2世帯が残っていたが、8月上旬までに順次マンションを離れていった。
救助活動
阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の経験が生かされ、迅速な対応が行われた。事故発生当時、いち早く現場へ駆けつけて救助にあたったのは近隣の人々である。負傷者の人数があまりにも多く救急車での搬送が追いつかなかったため、歩行可能な負傷者及び軽傷者は警察のパトカーや近隣住民の自家用車などで病院に搬送された。また、一度に多数のけが人を搬送する為、大型トラックの荷台に複数のけが人を乗せて病院へ搬送する手段が取られた。通常、トラックの荷台に人を乗せて公道を走るのは道路交通法違反であるが、一刻を争う緊急事態ということを考慮し、兵庫県警は白バイの先導を付ける事を条件に例外的に許可した。これらの結果、負傷者の半数は近隣の人々が医療機関に搬送しており、震災当時にみられたボラン� ��ィアの精神が生かされている。のちに、救助・救援活動の功績を讃えて、同年7月に76企業・団体と1個人に対して国から感謝状が、8月には48企業・団体と34個人に対して兵庫県警から感謝状が、9月には32企業・団体と30個人に対して尼崎市から感謝状がそれぞれ贈呈された。また、11月には日本スピンドル製造と1個人に対して紅綬褒章が授与された[4]。
また、救急医療関係者が事故現場周辺に展開して大量の負傷者が発生した場合のトリアージを実施している。事故から約2時間後には、尼崎市により事故現場至近の中学校が開放され、避難所として利用されたほか、緊急車両の待機場や消防防災ヘリコプターの臨時ヘリポートとして活用された。兵庫県は緊急消防援助隊の応援要請、広域緊急援助隊の出動要請、また現場に近い伊丹に駐屯する陸上自衛隊第3師団への災害派遣要請をそれぞれ行った。
<消防機関の活動概要>
救急搬送
広域消防相互応援協定により、複数自治体から応援があった一方で、負傷者の搬送先はそのほとんどが兵庫県下の病院となった。尼崎市と隣接する大阪府への搬送は転院が中心であり、直接の搬送は数件にとどまった。
原因
兵庫県警および航空・鉄道事故調査委員会による事故原因の解明が進められ、2007年(平成19年)6月28日に最終報告書が発表された。
航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304mの右カーブに時速約116km/hで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論付けた。現在では現場にATSが設置されたが、2005年(平成17年)6月 - 2010年(平成22年)10月までに速度超過で列車が緊急停止する事態が11件も起こっており、速度が出やすい魔のカーブとされている。[1]
なお、この脱線事故の原因の究明および以後の事故防止のために調査を行う航空・鉄道事故調査委員会が調査を行っていたが、この組織は2008年(平成20年)10月1日に運輸安全委員会に改組されている。本項では組織名を航空・鉄道事故調査委員会のまま記述する。
当初疑われた原因
事故発生当初は、下記のように種々の原因が疑われた。しかし、最終報告書ではそのほとんどについてそれを裏付ける傍証は明示されなかった。
乗用車衝突説
事故発生当初は、現場に大破した乗用車が存在することと列車の脱線の事実のみが伝わったことから、「踏切内で乗用車と列車が衝突し、列車が脱線した」との憶測が飛び交うなど情報が錯綜した。そしてJR西日本の当初発表が「踏切内での乗用車との衝突事故」だったため、報道各社はこのJR西日本発表を流した。発生2時間後の警察発表後で否定されるまで、乗用車との衝突とする報道は続いた。 塚口駅から同列車が脱線した地点までの区間に踏切は1つも存在せず、乗用車が近隣の建造物や立体駐車スペースから線路内へと落下した痕跡も確認されなかったことから、この説は明確に否定される。
線路置石説
JR西日本は、事故発生から約6時間後の25日15時の記者会見の中で粉砕痕(置石を踏んだ跡)の写真を報道機関に示すなどして、置石による事故であることを示唆した。しかし、JR西日本の置石説発表後に国土交通省が調査が済んでいない段階での置石であるとの断定を否定する発言を行い、JR西日本も原因が置石であるかのような断定を撤回する発言を行う。
その後、調査が進み、事故列車の直前に大阪方面へ向かう北近畿6号が通過するなど列車の往来が激しい区間であることから、多数の置石をするのが困難であること、置石の目撃者がいないこと、当初置石があった証拠として挙げられたレール上の粉砕痕は、航空・鉄道事故調査委員会の調査結果でその成分が現場のバラスト(敷石)と一致し、「脱線車両が巻き上げたバラストを、後部車両が踏んで出来たものと考えるのが自然である」との調査委員会の見解が出された。
しかし、巻き上げられたバラストがレール上で踏まれたなら当然に残るはずの、枕木上のバラストがあまり残っていないことなどから、一般には疑問も残った。また、事故後しばらく模倣とみられる置石事件で逮捕される者が相次いだ。
列車速度超過説
速度の記録から、現場の制限速度を大幅に超えた走行をしていたことが判明している。
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事故を起こした列車は、直前の停車駅である伊丹駅で約70mオーバーランしたため、伊丹駅を1分30秒(異説あり)遅れで発車していた。また、始発の宝塚駅やその次の停車駅である川西池田駅に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違えるなど、極めて不自然な運転を繰り返していたことも判明している。運転士がその遅れを取り戻そうと制限速度を超えた可能性がある。
現場のカーブは前述の通り半径300mで制限速度は時速70km。当該線区に設置されていた自動列車停止装置(ATS-SW)はJR西日本では最も古いタイプのものとされ、あたかもこれが事故を防げなかった原因であるかのような報道がされているが、当該装置でも速度照査用の地上子などの設備を設置すれば速度照査機能の付加は可能であり、ATS-SWそのものが直ちに事故原因に繋がる訳ではない。ちなみに事故現場には速度照査用の地上設備は設置されていなかった。
また、当該線区には新型のATSである自動列車停止装置(ATS-P)の導入が予定されていたが、ATS-Pでも速度照査用の地上設備が設置されていないと、速度超過した列車を自動で減速あるいは停止させることはできないのは、ATS-SWと同様である。
速度超過から脱線に至る原因は、せり上がり脱線説と横転脱線説の大きく2つの説があるが、レールの傷跡から後者と断定される。
非常ブレーキ説
カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、車輪フランジの機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを動作させなければ脱線および横転の可能性は少なかったといわれた。のちの解析の結果、運転士はカーブ進入後、車体が傾きだしていたのにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。
また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキを掛けていた原因は、0番台の車両と1000番台の車両のブレーキの掛かり方の違いによるものであるという見方もある。0番台と1000番台ではブレーキの動作が違っているため、207系の運転経験がある運転士は(他形式とは違い)20mほど手前から転がして微調整をかけるような運転の仕方が必要と話す。
せり上がり脱線説
運転士が、カーブ手前でそれに気づき非常ブレーキをかけたために(のちに否定される)車輪のフランジとレールとの間で非常に強い摩擦力が起き、2000年(平成12年)3月8日に発生した「日比谷線事故」と同じような車輪がせり上がって脱線した「せり上がり脱線」が起こり事故がおきたという見方もある。しかし、通常のせり上がり脱線が発生するためには車輪に非常に高い横圧がかかることが必要で、現場の半径300mのカーブ程度では通常は考えにくい。
とはいえ、現場の枕木に残された走行痕からせり上がり脱線(乗り上がり脱線)も起きたことは事実であろう。これは転覆に至る過程で、車軸が傾いたことによってレールに対する実質のフランジ角が減少して比較的低い横圧でもせり上がり脱線に至ったのではないかという見方がある。
横転脱線説
また、あるところでは、せり上がり脱線ではなく上記に示したとおり「非常ブレーキ」の作動によって列車のバランスが崩れ、進行方向(尼崎方面)向かって右側の車輪が浮き上がりそのまま左側に倒れ込んだ「横転脱線」ではないかとする見方もある。しかし、前述のとおり、乗務員が使用したのは「常用ブレーキ」であり、「非常ブレーキ」が作動したのは脱線によって連結器が破損した後であると判明している。
油圧ダンパー(ヨーダンパー)故障説
複数の乗客から「油くさい臭いがした」「異常な揺れを感じた」との証言があり、事故発生直前に車掌からも輸送指令に「(揺れがひどく)列車が脱線しそうだ」と無線連絡していたことから、新幹線などの高速車両にも搭載されている横揺れを抑える「油圧ダンパー(ヨーダンパー)」が故障していたのではないかとの説がある。
油圧ダンパーの故障で空気バネをうまく制御できなかった事により、直線区間で異常な揺れが発生し(油圧ダンパーや空気バネが正常であれば高速走行をしても極端な揺れなどは感じない)カーブに入ったときに「空気バネの跳ね返り現象」(油圧ダンパーが故障していたことにより、カーブ突入時に本来内側に傾いたままであるはずの車体がバネの跳ね返りで外側に傾いてしまう現象)が起こり、車体全体が外側に傾いていたときに、たまたま運転手の焦りから通常減速すべきカーブを減速しないで加わった強力な横の重力もあって転覆に至ったのではないかとされている。しかし、ヨーダンパが故障していたならば、当然にレールに残る周期的な変形は、航空・鉄道事故調査委員会の調査によって確認されなかったことから脱線の主� ��因とは挙げ難くなっている。
油圧ダンパーが故障したとすると、空気バネの制御ができなくなるのと関連してブレーキの制動具合にかなりの影響を与えるという意見がある。つまり、乗客が多い場合と少ない場合で同じ位置に停止させようとすると異なるブレーキ力を働かせなければならないので、その調整を空気バネの制御で行っているのである。今回の事故において、空気バネの制御ができなくなっていたとするとブレーキの作動が非常に悪くなっていた可能性があることが専門家から指摘されている。
ただし、本来油圧ダンパーと空気バネは独立したものであり、207系自体、また類似構造の台車を履く221系も当初ヨーダンパーを装備していなかったことから、ブレーキの効き具合にも直接の影響はないといえる。
事故の間接的要因
同事故においては多くの問題が指摘された。
JR西日本の経営姿勢が抱える問題
国鉄時代から並行する阪急電鉄などの関西私鉄各社との激しい競争に晒されており、その影響からか、民営化後のJR西日本にも競合する私鉄各社への対抗意識が強かったとされて、私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、スピードアップによる所要時間短縮や運転本数増加など、目前のサービスや利益だけを優先し、安全対策が十分ではなかったと考えられる。
また同社においては、先述の競争の激しさや、長大路線を抱えている点から、従業員がダイヤの乱れた時における乗客からの苦情の殺到を過度に恐れていたとの指摘もある[5]。
同社の安全設備投資に対する動きが鈍かった背景には、先述の私鉄各社との競争などによるサービス競争を優先させたほか、民営化後多数の赤字路線を抱えていたこと、阪神・淡路大震災で一部の施設が全壊ないし半壊するなどの被害を受けたことや、山陽新幹線のコンクリート崩落問題で多額の支出を強いられたこと、さらには一部の株主が利益に対する配当を優先させる要求に出たこと[6]などが挙げられる。
ダイヤ面での問題
事故発生路線である福知山線は、阪急電鉄の宝塚本線・神戸本線・伊丹線と競合しており、他の競合する路線への対抗策と同様、秒単位での列車の定時運行を目標に掲げていたとされている。
もともと全体的に余裕のないダイヤだったうえ、停車駅を次々と追加したにもかかわらず、所要時間は2003年(平成15年)12月に快速が中山寺駅に停車するダイヤ設定前と同じであったため、余裕時分を削って以前と変わりない所要時間で走らせ、慢性的な遅延が出ていることは問題視されていた。特に当該列車においては基準運転時分通りの最速列車で、事故発生区間である塚口駅 - 尼崎駅間では2004年(平成16年)10月のダイヤ改正によりさらに短縮されていた。
事故調査委員会が全国のJR・私鉄・公営鉄道事業者のダイヤを調べたところ、余裕時分のないダイヤを組んでいたのはJR西日本だけであった。
路線の設備での問題
当該事故発生前は運行本数が多く、速度も比較的高い大都市近郊路線であるにもかかわらず、速度照査用の設備が設置されていなかった。信号機に対する自動列車停止装置には旧型の速度照査機能がないATS-SWが利用されていた。ただし、ATS-SW形式でも信号とは独立の速度照査機能を付加して、必要箇所に地上子対を設置すれば、速度超過に対する緊急停止機能が動作する。有名な例では東海旅客鉄道(JR東海)の主要路線でこの形式が採用されている。
また、JR東西線との直通に対応した尼崎駅の改良に伴い、過去の線路付け替えで曲線半径が小さくなった。これは、当初の上り線は現場マンションを挟んだ東側にあり、下り線に併設されていた尼崎市場への貨物線跡地などを利用する形で現在の上り線が敷設された。この時点で東西線区間には新型ATSが設置されたが、福知山線においては付け替え区間を含めて設置されなかった。カーブでの高速運転をするためにカントを付けるが、現場は緩和曲線が短く、カントは上限105mmより少ない97mmなのでその分制限速度が5km/h低くなっていた。半径300mでカント105mm(上限値)での制限速度は75km/h。従前の「本則」では60km/h - 65km/h。
事故発生現場のカーブには、国土交通省の定める脱線防止ガードの設置基準にも該当せず、脱線防止ガードは設置されていなかった。ただし、脱線防止ガードがあったとしても、今回のように極端な速度超過による転覆脱線を起こした場合はほとんど効果が期待できない。
車両の問題
メカニズム面
ブレーキ関係
ブレーキハンドルでは、常用最大ブレーキと非常ブレーキの間にどちらのブレーキ指令も発せられないポイントが存在していた。この区間は、0番台・1000番台・2000番台とで異なる位置だった。また事故を起こした編成の7両目のマスコンは、そのポイントが11°あり、他の車両よりブレーキ寛解区間が広くなっていた。
207系7両編成の前4両(0番台/日立製作所製)と後3両(1000番台/近畿車輛製)では、主電動機(モーター)の出力などの性能に微妙な差異がある(0番台は155kW・1000番台は200kW)。また、制御装置にも違いがあり前4両のうちモハ207-31,206-17に三菱電機PTrVVVF制御装置、後ろ3両はクモハ207-1033に東芝GTOのVVVF制御装置である。ただし、同社の場合、他にも界磁添加励磁制御の221系とVVVF制御の223系6000番台との、全く異なる制御方式の系列同士の併結運転が行われていることや、私鉄各社でも制御方式の全く異なる車両を併結させることは珍しくなく、中には近鉄30000系ビスタカー(抵抗制御)と22000系ACE(VVVF制御)のように特急列車での高速運転の例もある(先述の221系と223系列同士の運用の場合、最高時速は120km/h)。
また、かつては国鉄でも101系以降の新性能電車の臨時増結に、吊り掛け駆動の旧型車を使用したこともあった(国鉄では当初カルダン駆動方式の「新性能電車」は全て2電動車ユニット方式としたため、緊急に1両単位で増結するときに旧型車は重宝した)。
鉄道模型を操作する方法
車両によってブレーキの利き方に違いがあり、事故車の先頭車は特に癖のある車両だったとの運転士の証言がある(前4両は、パワートランジスタを搭載していたためブレーキを作動させると他の車両より違和感がある)。ただし、これも上記の通り、ブレーキ読み替え装置を使っての電磁直通ブレーキ・単純発電ブレーキの旧型車と電気指令ブレーキ・回生ブレーキの新世代車を連結して高速運転している例は多くあり、各鉄道会社の運転士からは「(特定の編成または複数の編成の組み合わせによっては)癖があって正確に停車させるにも苦労する」と言う話は多数あれど、それが直接的・間接的要因となって発生した事故は皆無である。
台車
「使用している鉄道車両の台車がヨーダンパ付ボルスタレス台車(端梁なし台車DT50・TR235)であって、ねじれに弱い」と鉄道評論家の川島令三などが指摘している。そのねじれによりヨーダンパが跳ね上げ運動を起こし脱線したと論じており京浜急行電鉄・京阪電気鉄道・阪急電鉄などでは、台車は安全上軽量化すべき箇所ではないという考え方からボルスタアンカ付の台車を採用していることを論拠としている。また、異常振幅により空気バネが片方では大きく縮み、もう片方では大きくふくらんだため車体が傾いたのが脱線原因、とした報道もあった。[7]
しかし一方で、軟弱地盤を抱えながらも高速運転を行っている東武鉄道では、古くからボルスタレス台車が使用されている。さらに、ボルスタレス台車の構造が事故原因とする川島令三の著書内容について、鉄道ジャーナル誌に鉄道評論家・交通研究家の久保田博による反論文が掲載。台車の基本的構造はボルスタアンカの有無にかかわらず変わるものではなく、また異常振幅に対するストッパは存在しており、空気バネが大きく伸縮することはあり得ないと反論した。
なお、福知山線事故・最終報告書は、台車については論じておらず、これに対してボルスタレス台車が事故原因である旨の具体的なデータを伴った充分な再反証は提出されていない。note-89 鉄道車両の台車 脚注89
- 技術士、佐藤R&D代表取締役・佐藤国仁は、ボルスタレス台車について、事故時のような極端な超過遠心力が発生したときに初めて露呈する不備であって、通常走行の限りでは顕在化するものではない、とし、ボルスタレス台車の本質的な構造そのものを疑問視する意見には与しない、と前置きしながらも、ストッパ制限いっぱいまで変位するような極端な超過速度で曲線に進入した際には、台車のストッパ構造上ボルスタレス台車はより転覆限界速度が低い、と論じている[8]。
客室内の設備
客室内設備についても、事故発生時における被害軽減の観点から、手すりの配置、形状の改善などを検討するべきとの航空・鉄道事故調査委員会からの所見を受けて、JR西日本では207系全車と117系・115系の一部車両について車内吊り手を増設している。
車体面
事故を起こした207系車両がステンレス鋼製の軽量構造で、旧来の板厚の大きい鋼鉄製に比べ、車体側面からの衝撃に弱いという報道が相次いだ。しかし、一般的に、長尺物はその材質に関わらず、側面方向の衝撃が一点にかかるとそこにエネルギーが集中するので破壊がおきやすい(飲料水などの金属製の缶類がわかりやすい例として挙げられる)。ステンレス鋼自体も普通鋼と比べると、鋼板の粘りなどで有利な面もあり、一概に強度が低いとは言えないと言う反論もある。また、錆が出ないため、経年劣化が著しく少ない点でも有利である。
また、207系車両は従来の車両に近い構造の車体設計となっており、のちに登場した同社の223系2000番台や321系においても、製造コスト削減と量産体制の簡素化を図りながら、従来の車両と同等の強度を確保することを両立させるため、梁を省略する代わりに車体側板の強度を上げることにより、車体全体を支える設計思想に基づく車体構造となっている(これはJR東日本の209系以降の通勤・近郊型車両でも、ほぼ同じ設計思想である)。
実際に同年12月に発生した羽越本線特急脱線転覆事故でも、国鉄時代に製造された、旧来の普通鋼製車体の485系3000番台車両の一部が『くの字型』に折れ曲がるという結果からも、このような状況では車体強度への批判はほとんど意味がない(要はこのような状況を未然に防ぐシステムの構築の方がはるかに重要)という見解に落ち着きつつある。
ただし、「客室内の空間が確保されるよう車体構造を改善することを含め、引き続き車両の安全性向上方策の研究を進めるべき」との所見が航空・鉄道事故調査委員会から提出されている。これをうけて、223系5500番台以降の新型車両で、屋根と車体側面、台枠と車体側面への結合部材の追加、戸袋部(ドア)柱への補強の追加、車体側面の外板の材質変更をおこなっている。[9]。
保守面
車両のメンテナンスが大味であるとの指摘もある。ほかの鉄道会社の車両でも日常的におこっている車輪が滑走した際にできる偏摩耗の補修放置が最たる例で、放置すればするほどに車輪が真円でなくなり、走行中に非常に耳障りな音がでる。裏を返せばそれだけの負担を車輌にかけなければならない運行体制であるともいえる。ただし、この傾向は他のJR各社でも多かれ少なかれ見られる面もある[10]。
また、4年に1度速度計の精度を検査するよう義務付けられているにもかかわらず、車両メーカーからの納入後1度も検査していなかったことが分かり、2%までの誤差は許容範囲とされているが3 - 4%の誤差があった可能性があったことが判明した。ただし、仮にそのような誤差があったとしても、事故現場の制限速度が発生当時は70km/hとなっていた事から4%の誤差があったと計算して約73km/hとなる事から、これで事故が発生すれば発生現場での速度制限値自体の問題となり、該当事故の直接的な原因にはならなかったとの見方が強い。
事故乗務員の問題
本件事故を起こした運転士は運転歴11か月で、運転技術や勤務姿勢が未熟だった可能性がある。この背景には、国鉄分割民営化後の人員削減策で、特にJR西日本においては他のJR各社と比べると長期間にわたって新規採用者を絞り、定年退職者がまとまった数になったのを契機に採用者を増やしたため、運転士の年齢構成に偏ったばらつきが出て、運転技術を教える中堅およびベテラン運転士が少なくなったと言われている。
事故当日の運転士の行動
事故当日は、前日24日から2日間にわたっての勤務で、6時48分に放出駅から乗務し、松井山手駅まで回送し、松井山手発快速尼崎行き、尼崎発宝塚行き回送、宝塚発快速同志社前行きに乗務し、9時38分に京橋駅で乗務を終える予定だった。乗務開始から事故発生までに運転士は数回にわたってミスがあった。
- 8時23分ごろ、加島駅手前のカーブ手前で、速度超過によりATS(自動列車停止装置)によるブレーキ作動。
- 8時54分ごろ、宝塚駅手前の分機器に進入する際、速度超過によりATSが作動し、本来の停車位置より手前に停車。更に指令員の許可が必要なATSの復帰扱いを無断で行い発車。
- 8時56分ごろ、宝塚駅構内で再度ATSが作動し停車。
- 9時前、宝塚駅停車中、折り返しのため、車掌が尼崎方1両目から7両目に移動した際、運転士が最後部の運転席で3分以上座っており、車掌に気付き室内から出た際、車掌が直前の停車に対して「 (ATS) Pで止まったん?」との問いに運転士は不機嫌な様子で無言のまま立ち去った。
- 9時1分ごろ、本来運転士が使用することのない無線の試験信号が指令所に受信される。
- 9時15分ごろ、伊丹駅到着の際、停車ボイスの1回目の「停車です、停車です。」との警報音声が作動するがブレーキ操作を行わず、2回目の「停車、停車。」との警報音声でブレーキを操作するが72mオーバーラン。停車位置を修正する際も速い速度で行う。
- 伊丹駅を1分30秒で出発後、車掌を呼び出し「まけてくれへんか?」と求め、車掌が「だいぶと行っとるよ?」と返答すると再度「まけてくれへんか?」と言ったところで乗客が車掌を呼び止めたため電話が切られる。
- 9時18分ごろ、塚口駅通過後、制限速度70kmのカーブに116kmで進入、ブレーキを操作するが脱線。
事故調査報告書によると運転士は度重なったミスにより、宝塚駅到着前後には既に心身的に影響があったとしている。度重なったミスを車掌が指令所に報告しないか確認するため無線に気を取られ伊丹駅手前の停車ボイスを聞き逃し、伊丹駅を72mオーバーランした。
伊丹駅出発後、車掌に過小報告を求める間に車掌が乗客に呼び出され、途中で電話を切られたことに対して後部の状況を知らない運転士は虚偽報告を拒否されたと思い、再度運転士は車掌と指令員の交信内容に注意を払っていた。そのためカーブの認識が遅れ、ブレーキを操作するも間に合わず脱線した。また、運転士の右手の手袋が外れており、運転席に赤鉛筆が落ちていたことから、事故直前、運転士は交信内容をメモしていたと思われる(メモは運転士用時刻表のケースに記されたと思われるが、事故の衝撃でケースが粉砕されたため内容は確認されなかった)。
報告書では、列車が事故現場のカーブを無謀とも言える速度で進入したのは運転士が意識的に行ったのではなく、車掌と指令員の交信に気を取られ、ブレーキ操作が大幅に遅れ、十分減速できないまま現場カーブに116km/hで進入し、脱線したとしている。
事故直前の運転士を目撃した生存者が「電車が傾き始めても運転士はレバーを握ったまま慌てる様子もなく、普段の運転姿勢のまま斜めになっていた」と証言しており、ブレーキの操作記録も、弱いブレーキから徐々に強めるなど、習慣的なブレーキ操作であった事などから、運転士は事故の瞬間まで危険を認識していなかったとの意見もある。
日勤教育の問題
目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として、日勤教育という、再教育などの実務に関連したものではなく懲罰的なものを科していた。それが十分な再発防止の教育としての効果に繋がらず、かえって乗務員の精神的圧迫を増大させていた温床との指摘も受けている。日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において国会議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。事故を起こした運転士は、過去に運転ミスなどで3回の日勤教育を受けていた。
その他の問題
JR西日本が絡んだ重大な列車事故として、1991年(平成3年)5月に発生した信楽高原鉄道での同社線内列車とJR西日本からの直通列車との正面衝突事故がある。JR西日本は信号システムを信楽高原鉄道に全く連絡せずに改変するなどの行為があったとされたが、結局刑事告訴はされないままに終わった。当該事故とは性質は大きく異なるものの、先の事故を起こした体質に対する反省がなされぬまま、再び当該事故を招くことになったとの指摘がある[11]。
なぜ監視産業環境性能は、
また、事故列車にJRの運転士が2人乗車していたが、運転区長の業務優先や執行役員・大阪支社長の講演会への出席の指示により救助活動を行わなかった。このほか、JR西日本管内のATSで制限速度の設定を誤っていた箇所が多数確認される。
路線の周辺環境
電車が激突したマンションは、2002年(平成14年)11月下旬に建てられた。線路とマンション間の距離は6mに満たなかった。海外メディアは事故当初、この点について強く指摘していたが、日本の都会の土地・住宅事情を考慮すればやむを得ないことであり、そのような場所は日本全国に多数存在している。フランスのTGVでは、開業当時の線路と最寄の住居の距離は150mだった[12]。
運休から運転再開へ
この事故により福知山線の尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が休止された。また、同線を経由して運行されている特急「北近畿」「文殊」「タンゴエクスプローラー」も福知山駅以北の区間のみの運行となった。なお運休による減収は1日約3,000万円が見込まれていた。
復旧工事は同年5月31日から開始された。その後、同年6月7日から試運転を開始。2006年(平成18年)3月までの暫定的な運行ダイヤを提出し、同年6月19日午前5時、55日ぶりの全線運転再開となった。
振替輸送
福知山線の運転休止期間中、福知山線沿線である三田市・宝塚市・川西市・伊丹市周辺と、大阪・神戸市周辺を結ぶ経路において、振替輸送が実施される。
事故後、福知山線利用者の多くは競合している阪急の振替輸送を利用し、事故から約1か月後の5月23日には阪急ホールディングス(現在の阪急阪神ホールディングス)が1日平均で約12万人の乗客を振替輸送していることを発表した。
仮に並行私鉄である阪急宝塚線急行または、阪急神戸線特急と、西宮北口駅で阪急今津線を乗り継ぐ利用する方法で大阪(梅田)と宝塚の間を移動する場合、所要時間そのものは福知山線の快速を利用した場合に比べて約10分多く要する程度であるが、これに乗車駅や降車駅での乗り換え・乗り継ぎに要する時間がそれぞれ加わることによって、合計で20 - 30分程度の時間が余分に必要となり、通勤・通学など利用者の大きな障害となった。
また、振替輸送を行った路線では、事故以前からの既存利用者にも列車・バスの車内や駅などの混雑という形で影響がおよび、ゴールデンウィークがあけた5月9日からは、混雑緩和のため阪神電気鉄道や同線に至る路線などが新たに追加された。
実施区間
- 阪急電鉄
- 宝塚本線:梅田駅 - 川西能勢口駅 - 宝塚駅
- 神戸本線:梅田駅 - 塚口駅 - 西宮北口駅 - 三宮駅
- 今津線:
- 宝塚駅 - 西宮北口駅
- 西宮北口駅 - 今津駅(5月9日より)
- 伊丹線:伊丹駅 - 塚口駅
- 阪神電気鉄道
- 本線:梅田駅 - 尼崎駅 - 今津駅 - 元町駅(5月9日より)
- 神戸高速鉄道
- 東西線:
- 阪急三宮駅 - 高速神戸駅 - 新開地駅
- 阪神元町駅 - 高速神戸駅(5月9日より)
- 南北線:新開地駅 - 湊川駅
- 東西線:
- 神戸電鉄
- 有馬線:湊川駅 - 谷上駅 - 有馬口駅
- 三田線:有馬口駅 - 横山駅 - 三田駅
- 公園都市線:横山駅 - ウッディタウン中央駅
- 阪急バス
- 尼崎線(56系統):川西バスターミナル - 阪神尼崎(5月9日より)
- 阪神電鉄バス
- 尼崎宝塚線:宝塚 - 阪神尼崎(5月9日より)
- 杭瀬宝塚線:宝塚 - 阪神尼崎駅北(5月9日より)
不通特約
振替輸送の他にも不通特約の切符を発行する措置もした。不通特約の切符とは、みどりの窓口の駅員が普通の切符に赤いペンで手書きで「不通特約」と書いただけの切符のことで、この切符は福知山線経由と同じ料金で山陰本線などのほかの路線経由で目的地まで向かうことができる。おもに尼崎駅 - 宝塚駅間をまたぐ長距離の利用客に発行された。発行された例として「東海道線・山陰本線京都駅経由の新大阪 - 福知山」「山陽本線・加古川線谷川駅経由新大阪 - 福知山」がある。
復旧工事
復旧工事は5月30日午前8時から始まる予定だった。しかし、周辺の住民の同意を十分に得ないまま工事が行われようとしたとして一部から抗議が寄せられたため、工事は午前9時ごろから中断し、30日の工事は中止になった。30日はJR西日本の担当者が周辺の住民を戸別訪問し了解を取る作業を続ける。住民の同意が得られたとして工事が31日午後1時から始まり6月3日に終わる。そして、住民への戸別訪問による工事終了の説明をして完了する。
試験運転
6月7日以降に行われた。7日には網干総合車両所の221系と201系による走行試験、8日には同所の207系によるATS-Pの作動試験が行われた。
運転再開
6月19日に尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が再開された。しかし「まだ原因もはっきりしていないのに運転再開とはどういうことか」などといった一部からの反発もある。ダイヤは事故前から大きく変更されて朝ラッシュ時間帯の快速の所要時間はおよそ1分30秒伸ばされ20分になる。
当面の間、宝塚駅 - 尼崎駅間の最高速度は120km/hから95km/hに、また遺族や近隣住民への配慮の点から事故のあったカーブの制限速度は70km/hから60km/hにそれぞれ引き下げられ、実際の列車走行時にはさらにそれより低い速度で運転されることも珍しくない。
尼崎駅 - 新三田駅間に拠点P方式のATS-Pが導入され、6月19日から運用を開始する。従来のATS-SWも存置されているが、速度照査用地上子が設置され、事故現場においてATS-SWでの速度照査も開始された(詳細はJR西日本の速度照査に記載)。
再開翌日の夕方、現場のカーブを通過しようとした特急「北近畿」15号が曲線の照査速度を超過したため緊急停車した。場所が場所、時期が時期なだけに報道陣の目の前での停車となって、皮肉にも速度照査機能が正常に作動したことを証明した形となる。即日のうちに、国交省より注意を受ける。
また、その後も同線では、脱線事故現場付近で速度超過があったり、運転士が居眠り運転をしていたりした[13]ことなどが発覚している。
その後
事故を起こした列車の列車番号である「5418M」は無期限の欠番となり、同時刻を走る列車は「5818M」を名乗るようになった。その後この運転系統の快速列車には5420Mから始まる番号が振られるようになり、ほぼ同時刻を走る列車の列車番号は「5438M」となっている。なお、事故による欠番はこれまで鉄道業界では例がなかったが、航空業界では日本航空123便墜落事故での123便の例がある(同じく無期限欠番)。
2006年春に行われたダイヤ改正において、同社の路線全体におけるダイヤの余裕時分を増やし(例:新快速列車の三ノ宮駅 - 大阪駅間の所要時間が、現行の19分から20分に)、駅ごとの乗降数に応じて停車時間も10秒 - 1分ほど延長されるほか、それに伴って乗務員が不足する状況への苦肉の策として、同社の路線全体で140本の列車を削減された。
この改正により、東海道本線(JR神戸線)の須磨駅 - 西明石駅間の各駅停車列車を現行の毎時8本から4本に半減させるなど、昼間時の利用率の低い区間の列車が削減されたが2008年春に行われたダイヤ改正で昼間時の毎時2本が再び西明石駅発着に戻っている。
事故の後、乗客の一部がJR西日本の安全性、企業の姿勢に不安を感じ阪急宝塚線に流れているが、JR西日本の発表によると9割方の乗客が戻っている。ただし実数は未調査のため不明である。
遺族感情への配慮などのため、その後に登場した321系のラインカラーが、当初予定されていた青2色から、紺・オレンジを基本とする配色に変更された。また、事故列車と同じ207系も同年11月25日から同様に配色変更された車両の営業運転が順次開始され、2006年3月末までに対象車両全477両の配色変更を終わらせた。
地上側では速度照査機能を持ち、曲線区間の手前で十分に減速、あるいは非常停止が行えるATS-Pが、車上側では運転士のマスコン・ブレーキ・警笛・EBリセットスイッチなどの無操作が約60秒続くと5秒間警報が鳴動し、さらに操作がない場合は自動的に非常ブレーキが作動するデッドマン装置の一種である緊急列車停止装置(EB装置)と、列車の異常時に操作することで、防護無線をはじめとする必要な処置を一斉に行う緊急列車防護装置(TE装置)の導入が進んだ。しかしその後、同社がEB装置設置済みの車両について、一時的にしても取り外したままにしていたり、スイッチが切れていたりする状態で、福知山線や片町線、山陰本線、大糸線、湖西線、東海道本線、草津線などで運行していたことが判明している[14][15][16]。
事故車両は兵庫県警に押収され、兵庫県姫路市の市之郷付近の新幹線高架下に作られた保管施設に保管されている[17]が、公判で証拠として使用することがなくなったとして2011年2月1日付けでJR西日本に返還された。[18]
補償問題
JR西日本は電車が激突したマンションを買い取り、慰霊碑を建てることを検討していると発表した。しかし、マンションの住民のうち買い取りを望んでいない住民もいて、住民内でも意見が分かれている。2006年(平成18年)春までに解決する予定とのことだったが、2010年(平成22年)2月現在、現場マンションは取り壊されていない。
JR西日本は2007年(平成19年)10月に現場の線路脇に残る脱線の痕跡の上に砂とコンクリートを敷設して作業用の通路としたが、翌年現場を訪れた遺族がJR西日本に抗議した。同年12月5日に行われたJR西日本の掘り起こし作業により痕跡が残っていることが判明し、JR西日本は翌6日に保存を決めた[19]。
沿線への影響
運休が2か月近くにおよんだため、駅周辺の商店街の利用者が激減し、営業時間の短縮・休業により商店街への売り上げの影響を受けている。福知山線の駅周辺の商店街が経営難に陥り閉店する恐れがあると懸念されていると報道された。
伊丹駅周辺
この事故で復旧するまでの間、JRと阪急の駅の客足が大きく変化している。伊丹市の玄関口は阪急伊丹駅が震災で全壊したのを機にJRの伊丹駅に移り、事故後にJRが不通になると阪急伊丹駅の乗客数は震災前の乗客の多かった時期を超えて増え、事故前の乗客数23,000人に対し事故後は47,000人と阪急にシフトした。駅ビルのおよそ1,200台収容できる地下駐輪所はすぐに埋まり、自転車放置禁止の場所にまで駐輪する者がいた。しかし、JR伊丹駅周辺のおよそ2,000台収容できる駐輪所はガラガラの状態だった。JR伊丹駅隣接のダイヤモンドシティ・テラス(現在のイオンモール伊丹)も、JRを利用して訪れる客は2割はいるので影響を被っており、事故後に1割ほど減っている。
JR西日本人事への影響
被害があまりにも甚大だったため、経営陣の引責辞任は不可避であると見られていたが、後継人事は難航した。結局、2006年(平成18年)2月1日付で南谷昌二郎会長と垣内剛社長は退任し、事故後就任した山崎正夫副社長が社長に昇格、外部の住友電工から会長として倉内憲孝を迎えることになった。なお、相談役であり、国鉄民営化の立役者としてJR西日本への影響力が強かった井手正敬もその職を辞した。
2009年(平成21年)7月8日、神戸地方検察庁は当時の安全担当役員だった山崎社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。これを受けて山崎は社長を辞任し、後任として佐々木隆之副会長が社長に就任することとなった。
2009年(平成21年)7月23日、JR西日本は山崎正夫社長の在宅起訴を受け、同社長のほか事故当時の会長であった南谷昌二郎、社長であった垣内剛両顧問のほか、幹部ら29人の処分(報酬減額など)を発表した。会見した真鍋精志副社長は、「事故を組織的、構造的課題と認識しており、経営を担ってきた者に重い責任がある」とし、「会社全体の責任としてとらえなければならない」として、歴代の社長のほか事故当時の執行役員、現在の役員も処分の対象に加えたと説明した。
2012年(平成24年)3月8日、JR西日本は、事故の列車に乗務していた当時の車掌について、乗客の救護を怠ったことや、他の列車に事故発生を知らせなかったことなどを理由に、出勤停止7日間の処分とした。この車掌は、事故後、病気を理由に休職していたため、処分が見送られており、その後復職したことを受けての処分となった[20]。
刑事裁判
2009年(平成21年)7月8日、神戸地方検察庁は、当時の安全担当役員だった山崎正夫社長を、業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。起訴理由は、山崎が福知山線のJR東西線への乗り入れの線形改良工事の前年に函館本線で発生した日本貨物鉄道の脱線事故を受け、この事故が起きた地点の線形に注目し、当該区間にATS-Pを設置すれば事故が防げる趣旨の発言から、福知山線の線路付替の危険性を認識していたことを理由としている。
なお、山崎の上司役員は、山崎から報告を受けていなかったとして、当時の社長を含めて関係する役員を不起訴処分とし、当時の事故車両の運転士も当人が死亡により同様に不起訴処分としている。しかし、2009年(平成21年)10月22日、神戸第一検察審査会は、不起訴となったJR西日本の歴代社長3人(井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛)について、「起訴相当」と議決したことを公表した。
2009年(平成21年)12月4日、神戸地検は上記3人について再び不起訴処分としたが、検察審査会はその後、自動的に再審査を開始[21]し、2010年(平成22年)3月26日、神戸第一検察審査会が再び起訴相当と議決したため、強制的に起訴されることとなった[22]。
2010年(平成22年)4月23日、裁判所の指定する弁護士が検察官に代わってJR西日本の歴代社長3名を起訴し、公判が始まった。
2010年(平成22年)1月29日、この脱線事故で業務上過失致死傷容疑で書類送検され、神戸地検が不起訴とした元運輸部長2人について、神戸第一検察審査会は20日付で不起訴不当を議決した。不起訴不当は、検察審査会の委員11人の過半数が「不起訴が妥当でなく、地検に再審査を求める」意見の場合に議決される。[23]
2012年(平成24年)1月11日、神戸地裁はJR西日本の山崎正夫前社長に対し、「危険性を認識していたとは認められない」などとして無罪判決を言い渡した[24]。
事故調査委員会の情報漏洩
2009年(平成21年)9月25日、事故当時鉄道本部長だった山崎正夫前社長が、先輩である当時の事故調査委員の1人であった山口浩一元委員に対し、お土産(鉄道模型やチョロQなど)持参で接待し、事故の調査報告を有利にするための工作と情報漏洩が発覚した。結果的には、事故調査報告書に反映されなかったが、幹部が事前に内容を知っていたという事実が明らかとなった[25]。
翌9月26日、今度は幹部のJR西日本東京本部の鈴木善也副本部長が、先輩である航空・鉄道事故調査委員会の鉄道部会長だった佐藤泰生元委員に接触を図ったことが発覚。土屋隆一郎副社長(事故対応担当審議室室長兼任)から指示を受けて接触し、「中間報告書の解説や日程を教えてもらった」と説明。会社ぐるみで事故調の委員に接触を図っていた実態が判明した。鈴木副本部長は「情報を早く入手し、安全対策に貢献したかった。軽率で不適切だった。」と謝罪した。ただし、「昔からの付き合い。会社ぐるみとは思っていない。」と釈明もした[26]。
この2つの報告書漏洩を受け、JR西日本は山崎取締役・土屋副社長の辞任を発表した[27]。
マスメディア
報道では、事故が起こった路線名の表記が分かれた。朝日新聞・神戸新聞・サンテレビは、東海道本線大阪駅 - 尼崎駅間と福知山線尼崎駅 - 篠山口駅間の愛称である「JR宝塚線」を使用しているが、それ以外のマスメディアでは正式名称の「福知山線」を使用している。
番組編成(テレビ)
テレビ各局は事故発生の約1時間前後から画面上へのテロップによる速報を流し始めた。その後、午前10時前にNHK総合が臨時ニュースを編成したあたりから、通常放送を中止して報道特別番組に切り替える動きが出始めた。
午前10時30分の時点で、NHKおよび民放ネットワーク各局は、放送中の通常番組を打ち切ったり内容を変更して、列車事故に関するニュースを(おおむね午後6時台のワイドニュース終了時まで)報じた。
なお、関西の一部民放局では午後7時以降も通常番組を中止し、報道特別番組を編成したほか、事故発生翌日以降も関連ニュースを特別番組などとして伝え続けた。
報道のあり方について
事故直後のマスメディアの報道は、事故当日に同社社員が救助や阪神・淡路大震災以来の待機体制である「第1種A体制」を優先せずにボウリング大会などの懇親行事を取りやめずに開催して、時間とともに事故の規模が判明していき犠牲者も増えているのにもかかわらず中止せず、ボウリングをどのような様子でしていたのか、居酒屋などで4次会までしてどのような飲食をしたのかといった事故を起こした会社の社員としての自覚や事故の原因究明、再発防止をないがしろにしていないかと懐疑的な報道をした。
また、直ちに危険に繋がるものではないオーバーランや数メートル程度のささいなオーバーランも昔から全国各地で日常的に発生しているものであるが、この事故を契機に、各地で相次いだ事件とインシデント(事故を引き起こす危険性が高い事態だったが、実際には事故にならなかった案件)が連日取り上げられて報道される。2010年(平成22年)には、これまた全国で発生しているATSの作動による急ブレーキ作動について、JR西日本が現場での作動を公表していなかったとして多くの報道機関に報道された。これに対し、遺族に取材して「あきれました」などという感想を流すなどした。しかし、ATSの作動による緊急停止の事案を全て公表している鉄道会社は他になく、公表の是非に関しては報道されなかった。
さらに事故当時、一部のマスメディアが取材ヘリを現場に飛ばし、救出活動を妨げた(要救助者の声や生体反応をローター音で遮ってしまう)。これは新潟県中越地震でも一度問題になっていた直後であり、また昼夜問わず取材ヘリを飛ばしたため近隣住民の迷惑ともなり、ウェブにおいてマスコミ批判を呼んだ。
一部メディアの中で、福知山線が過密ダイヤなので、事故が起きたという報道がされたが、関西圏の中でもあまり過密ではなく、首都圏各線と比べるとそこまで多くない。
番組への影響
その他の影響
社内スポーツ活動への影響
脱線事故を受け、社内運動部であるJR西日本硬式野球部はすぐに活動自粛を発表、7月には日本野球連盟に休部届を提出して、現在も活動休止状態にある。毎年行われていたJRグループの対抗戦も中止となった。
日本国外の反響
この事故は、日本国外でも大きな反響を呼び、各国の報道機関が報道した他、ジャック・シラク・フランス大統領、ヨシュカ・フィッシャー・ドイツ外務大臣、コンドリーザ・ライス・アメリカ合衆国国務長官、王毅・中華人民共和国大使、潘基文・大韓民国外交通商部長官も日本政府に弔意を表明した。
派出した事件・犯罪
事故発生後、これに関連・便乗した事件が発生している。以下はその一部である。
- 事故には直接関係のないJR西日本の乗務員・駅係員がホームで蹴られるなどの暴行や嫌がらせ、痴漢などが相次いで発生。乗務員の交替の際に警備員が警護する事態に発展する。
- 振り替え輸送を行う路線において、混雑が増したことに便乗した痴漢などの犯罪が増加する。
- 山陽本線や可部線、JR東日本東金線など、脱線事故を真似て線路上に自転車を置いて列車に衝突させる事件が相次ぎ、逮捕者や補導者が出る。
- 事故列車に乗り合わせていたと偽り、JR西日本から見舞金をだまし取った詐欺容疑で複数人が逮捕される。
- 事故を引き合いにして、直接関係のないJR九州の駅設備などを酔って破壊した男が逮捕される[28]。
- 電留線に止めてあった電車に事故に関連した内容の落書きが書かれる。
関連項目
関連書籍
脚注・出典
参考文献
外部リンク
座標: 北緯34度44分29秒 東経135度25分36秒 / 北緯34.74139度 東経135.42667度 / 34.74139; 135.42667
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