新しい戒め
愛するということ
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ伝15:12)
私たちクリスチャンは、イエス様によって愛することを教えられた者です。イエス様に愛されたので、愛することを知りました。
「だから愛さなければ・・・、赦さなければ・・・、〜しなければ・・・、」と、愛を示すことが目標になっていることがしばしばあると思います。しかし、よくこの御言葉を読むと、そうではないことがわかります。「私があなたがたを愛したように・・・」とあるように、イエス様の愛が出発点であって、その結果として私たちが愛することができるようになるのです。
イエス様が十字架につく前に、弟子たちにそのみこころのすべてを語られた遺言ともいうべきこのヨハネの福音書14〜16章は、恵みの時代の私たちに語られたことばでもあります。
愛の基準
この御言葉をよりよく理解するために、律法の時代の同じような愛の戒めの御言葉について考えましょう。それはルカの福音書10章25〜29節です。
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「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というのが、旧約の律法を要約した教えでした。ヨハネの福音書15章12節も、イエスの愛の戒めです。
同じような愛の戒めですが、この2つの御言葉は全然ちがいます。どこがちがうのでしょうか。それは愛の基準です。律法の時代の愛の基準は、人が自然に理解することのできる「自分」でした。ですから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というのが、愛の戒めでした。けれども、イエス様の十字架の愛を知る弟子たちや、私たちクリスチャンには、十字架でご自身を犠牲にする愛を基準として示されて、「私があなたがたを愛したように・・・」と、主はお教えになりました。
隣人の範囲
愛の基準がイエス様であるか、自分であるか。実は、このルカの福音書10章の中でも、イエス様は人を基準とした愛ではなく、神の愛を示されているのです。
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模範回答をした律法学者に対して、イエス様はそれを実行するように勧めました。すると彼は、それを実行しているという自信があったのでしょう。自分の正しさを示そうとして、「私の隣人とは、だれのことですか。」と質問しました。宮沢賢治の詩ではありませんが、彼は東に病んでいる人がいれば見舞い、西に悩んでいる人がいれば、声をかけていたかもしれません。
私たちは隣人というと、左右両隣の人を思い浮かべるでしょう。私が住んでいるところでは、11軒で1つの組となっています。自分を愛するように11軒のすべての人を愛することができたら、すごいと思います。この律法学者は、そうしているという自信がありました。
けれどもここに、この後に続く、よきサマリヤ人のたとえ話が語られる理由があります。この律法学者はおそらく、隣人の範囲を自分で限定していたでしょう。けれどもイエス様のいう隣人には、範囲がありませんでした。すべての人が隣人なのです。敵でさえもそうなのです。
当時のユダヤ人とサマリヤ人は、いがみあっていました。強盗に襲われた人は、ユダヤ人です。同胞である祭司やレビ人が来ましたが、遠ざかっていきました。彼らは隣人であるはずの人たちです。そのときサマリヤ人がやってきました。この人は期待できないと思ったでしょう。しかし、このサマリヤ人は手厚く介抱してくれました。敵対するはずの人でした。
イエス様は質問しました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。いうまでもありません。敵をも愛する愛。範囲を限定しない愛。実は私たちもこの愛によって救われたのです。
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そもそも私たちは、罪を犯し、神から遠ざかり、神を無視し、神に敵対する歩みをしてきた者です。神は、その私たちを一方的に愛し、その愛のゆえにご自身の愛するひとり子イエス様を十字架で犠牲となさいました。神がその愛の対象の範囲を限定されていたら、どうでしょうか。私たちは神の愛の対象たりえなかったのです。神がその愛の範囲を限定されず、敵対する者をも愛される御方であったからこそ、私たちは救われたのです。
同じような例が、マタイの福音書18章21節から出てきます。ペテロがイエス様に質問しました。「兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエス様は言われます。「七度を七十倍するまで」と。ペテロは7度までと赦す回数を限定しました。しかし、イエス様は無制限に赦せとおっしゃいました。回数を限定しなかったのです。私たちはイエス様から限りなく愛されたものです。ですから、人を赦すことができるのです。イエス様はまだ律法の生きている時代にあって、その律法から説き明かして、範囲を限定しない愛、回数を限定しない赦しを教えられました。神の愛、神の赦しを説き明かしたのです。
愛は出発点
ここでふみとどまってもう少し、自分を基準にした愛と、イエス様を基準にする愛のちがいを考えてみたいと思います。もしこの律法学者のように、自分にできることを基準にすると、どういうことになるでしょうか。
まず自分が愛を示す目標を立て、それを達成したとしましょう。すると第1に、自己満足して高慢になります。彼は「自分の正しさを示そうとして」とあります。第2に、愛を示した相手に感謝されなかったら、不満をもらすようになります。「私がこれだけのことをしてやったのに・・・」と。そして第3に、他の人と自分を比較して、「自分はこれだけのことをしているのに、あの人は何もやっていない」と不平をもらすようになります。逆に目標に到達しないと、「自分は愛のないものだ」と自己卑下に陥るのです。
しかし、もし主の愛に捕らえられているならば、まったく自然な形で愛が現れていくことになるのではないでしょうか。仮にその行為に対し感謝されなくても、「しもべはするべきことをしたにすぎません」答えることができます。いずれにせよ、愛は目標ではなく、出発点ではないでしょうか。自分を中心に考えれば、愛は示さなければならない目標となりますが、もし主の愛に捕らえられているならば、愛は必然的な結果として現れてくるでしょう。
ヨハネの福音書15章12節に戻ります。「私があなたがたを愛したように」という、この前半の言葉をしっかり保っていれば、後半の事柄は自然と現れることでしょう。
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