2012年6月4日月曜日

ハガクレ★カフェ


昭和17年 1942年 年表 
いつもと全然違うお正月!!

開戦してから初めてのお正月を迎えました

繁華街はどこも静かで、自粛ムード

宴会もできないため、飲み屋も開店休業状態でした

ご近所さんへの年始まわりもナシ

空襲対象になりそうな工場などではノンビリできる状態ではありませんでした

また農林省が林業資源を確保するために門松禁止!!と言いましたが、あまりにもさびしすぎるので隣組で共同門松を立てるのだけは許可しました

唯一賑わっていたのは神社と映画館

ちなみに映画館で上演されているのは、戦争関係のニュース映画でした

1月2日 日本軍 マニラを占領する

日本軍はマニラに無血入城し、占領しました

真珠湾攻撃と同じ日に航空攻撃に成功し、数日間の間に米軍航空隊を壊滅させ制空権を握っていた日本ですが、これらの戦果を受けた第四十八師団の主力らがマニラに向かってきたのです

マニラを挟み撃ちする形で日本軍は進撃し、フィリピンにいたアメリカ軍も激しく抵抗しました

が、とうとうコレヒドール島の要塞にたてこもったのです

日本軍はアメリカ軍が脱出した後のマニラに入り、占領を成功させました

そしてこれからフィリピンからアメリカ軍を一掃する作戦を開始するのです

ちなみにこの時のアメリカ軍の総指揮はマッカーサー将軍です

1月15日 大本営発表始まる

大本営はNHKラジオを通して、戦果の発表を行いました

以後、4年半のうちに846回ほど、ラジオや新聞で色んな発表を行います

なんでこんなにいっぱい発表するのさ??というと、陸軍と海軍が自分達の方が戦争成績がいい!というアピール合戦を行っていたから

で、この大本営発表ですが、戦争が始まった最初の頃はわりあい正確な情報を流していたんですが、だんだん誇張されていくようになります

最初の頃は日本が優勢だったんで、ガンガン発表できたけど、後半はだんだん雲行きが怪しくなってきましたよね

で、国民には「架空の勝利」をアピールし続けることになるのです

当時のマスコミ状況

当時はテレビもインターネットもない時代なので、情報源といえば「ラジオ」「新聞」「雑誌」のみでした

でもって、満州事変・日中戦争と日本は戦争モードに入ってたので、政府の多くに軍人がいました

太平洋戦争が始まった直後には「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が成立し、出版物の発行には内務大臣の許可が必要で、妙な記事を書いた者などは処罰できるという法律ができたのです

これによって国民は戦争を非難することはいっさいできなくなりました

内閣情報局はラジオ放送内容をめっちゃチェックしまくり、国が完全に情報を遮断し、操作しまくったのです

1月16日 日本軍がタイからビルマに侵攻する

1月18日 ベルリンで日独伊新軍事協定が調印される

1月20日 ナチス 全ヨーロッパのユダヤ人殺害を決定する

ベルリンで国家保安本部長官のハイドリヒが、ナチス党と政府の代表を集めました

そしてヨーロッパにいるユダヤ人問題についての会議を開いたのです

結果は極秘事項となりましたが、実はここで全ヨーロッパ人にいるユダヤ人を大量殺戮することが決まったのです

1月23日 日本軍、ラバウルへ上陸

1月25日 タイがアメリカとイギリスに宣戦布告する

1月26日 180億円の臨時軍事費追加予算案が可決される

1月28日 埼玉県で越境買出しの主婦が100人以上が検挙される

1月 大日本婦人会が結成

この頃の婦人団体は大きなものが3つありました

陸海軍の監督指導下→大日本国防婦人会

内務省(のちの厚生省)下→愛国婦人会

文部省下→大日本婦人連合会

この3つは、日中戦争が始まってからというもの、遺族の救護活動や貯蓄奨励など、ほぼ同じような活動をするようになりました

そのため、3つの団体をまとめて「大日本婦人会」として、新たに発足させたのです

20歳以上の夫人が強制加入させられ、制服は紺色のスモッグのようなもので、左胸には日の丸をあしらった会章をつけました

2月4日 ジャワ沖海戦

ボルネオ島から発進した海軍航空部隊が、スラバヤ沖のマドゥラ海峡でアメリカ・イギリス・オーストラリア・オランダの連合国艦隊を攻撃しました

そしてアメリカの「ヒューストン」と、「マーブルヘッド」に大きな打撃を与えました

沈没させるまでは行きませんでしたが、オランダの司令長官ドールマン少尉率いる連合艦隊を撤退に追い込み、ジャワ沖の制海権を握りました

2月8日 日本軍 シンガポールを攻撃

シンガポールはイギリスの東洋における植民地支配の象徴の場所

日本はここを占領することにしました

マレー半島は資源が豊富だし、それにシンガポールを陥落させるということは、植民地解放!という大義名分もできるからです

ということで、日本は作戦準備を入念に行い攻撃を開始しました

作戦準備にぬかりのない日本軍はどんどんイギリス軍を敗走させ、シンガポールに迫っていきました

2月10日になるとチャーチル首相が「シンガポール死守!!」の命令を出します

イギリス軍も「東洋のジブラルタル」といわれるシンガポール島の要塞地で日本軍をまちかまえることに

始めの頃は日本軍優勢か!?と思われましたが、そのうちイギリス軍・インド軍もめっちゃ頑張りだし、日本軍にも多くの死� ��者が出るようになりました

日本軍の爆薬も少なくなり、これはまずいかも・・・というムードになっていきます

2月11日 ドイツ海軍の「ケルベロス作戦」大成功

フランスのブレスト港にいるドイツ戦艦がイギリス本土近くのイギリス海峡を通り、ドイツ本国へ帰還させるという「ケルベロス作戦」が行われました

ブレスト港はたびたびイギリス軍の空襲を受けており、さらにアメリカの参戦によって太平洋への出撃も無理な状態

ということで、ドイツへ戻すことにしたのです

ここでドイツは白昼堂々の突破を行い、イギリス海軍は「なにやっとんじゃ!!」と、めっちゃくちゃ非難されたのでした

2月14日 スマトラ島に落下傘降下

日本軍は油田を確保するために、339人の陸軍落下傘部隊をスマトラ島パレンバンに降下させました

そして飛行場と製油所を襲撃し、制圧したのです

2月14日 イギリス空軍が攻撃対象を特殊目標から一般市街にする

2月15日 日本軍、シンガポール占領

さて、2月8日から行われていた攻撃ですが、この日の午後、突然白旗を持ったイギリス軍の兵士が現れました

そしてプティマにあるフォードの工場で、日本軍の山下奉文(ともゆき)司令官と、イギリス軍のパーシバル中将とで会見が行われたのです

山下は「日本軍はさらに進攻しますぞ。無条件降伏か、戦うか、イエスかノーで聞きたい」

コレに対し、パーシバルは一時間ほど考え「降伏します」と答えたのです

こうして日本軍はシンガポールを占領したのでした

この活躍により、山下中将は賞賛されまくりました

2月19日 アメリカの日系人 収容所へ

ルーズベルト大統領が「戦争遂行上 軍が必要と認めた地域から一定の人々を排除することができる」という行政命令に基づき、日系人の強制立ち退き命令を出しました

そして約11万人の日系人が、今まで築いてきた財産全てを失い収容所に入れられたのです

日系人は10箇所ある収容所の鉄条網に囲まれたバラックで暮らすことに

ほとんどの場所が、環境が悪く生活は苦しいものでした

アメリカに続き、カナダとペルーも日系人の強制収容を始めることになります

アメリカは日本人が嫌い

今回罪のない日系人が収容所送りされたことにより、日本はアメリカに対しますます憎しみを持つように

実は、アメリカ人は以前から日本人を何度も迫害していました

もともとの「白人の人種偏見」もあるんだけど、きっかけは日露戦争の時

日露戦争で日本が勝てたのは、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが頑張ってくれたから

だけどポーツマス講和会議の結果は日本にめっちゃ不利で、不満を持った日本国民が日比谷で焼き討ち事件を起こし、頑張ってくれた仲介者であるアメリカを恨みました

この日本人の感情に怒ったアメリカ

ふざけるな!と、サンフランシスコで日本人の子供の隔離を決めたのです

でもって、次々と日本人排斥の法案がいたるところで出されました

カリフォルニア では、日本人がいっくら頑張っても土地を持つことは禁止!という法律まで出来ちゃうし、「黄色人種は帰化不能人種だ」といったことまでアメリカ最高裁判所が言っちゃうし

さらに大正13年には「絶対的排日移民法」が出来て、日本移民が完全に禁止

とにかく日本人が嫌いだったんですねぇ

日本人移民の多くはハワイ経由でアメリカへやってきました

1881年にハワイのカラカウア王が日本へやってきて、明治政府に対し「勤勉な日本人を移民として受け入れたい」と言ってきたのであります

この時 約3万人の日本人がハワイへ渡り、その後1924年までに20万人が移民としてハワイへいきました

それからハワイがアメリカ領になったので、多くの日本人移民がアメリカへ

なんといってもア メリカ大陸のほうが賃金がいいからね

大量にやってくる日本人移民に対してカリフォルニアの人々はというと

「日本人は勤勉でマジメ。安い給料で長時間労働を喜んでやる。日本人は楽しむことをせず働き続けるだけ。アメリカ人は社交を重んじて幸せな家庭を築こうとしてる。そんなアメリカ人がバカみたいに働く日本人に勝てない。このままじゃ日本人に職を奪われてしまう!」と思うように

それに日本人はアメリカ社会に溶け込もうとしない

「故郷に錦を飾る」思いが強く、大金を稼いだら日本に帰る。それまでの我慢という感じだし、ちょっとでもお金が入れば故郷へ送金しちゃう

だからアメリカ経済に寄与することも無い

さらにさらに、アメリカ定住を決意した日本人は日本から花嫁を呼び、子供� ��いーーーっぱい作った

出生率の高さもアメリカ人にとって嫌だった

また、生活習慣もアメリカ人にとって嫌悪だらけ

「爪楊枝を人前で使ったり、スープを音を立てて飲んだり、女性は白粉べったりで売春婦みたいな化粧だし、どこでも立小便するし、下着姿でウロウロ歩く」と、アメリカ人にとってめっちゃ不快な習慣だったのであります

ということで、もともとある「人種差別」意識が、日本人を目の当たりにしてさらに嫌悪感を抱くようになり、排斥したくなってきちゃったのです

こうしたアメリカの感情に対し、日本国民もアメリカにたいして嫌悪感を抱くのでした

2月20日 日本軍がティモール島を占領する

2月20日 バリ島沖海戦

日本軍はジャワ島攻略の足がかりにするため、バリ島に上陸

この動きを察知したオランダのドールマン少尉は阻止するべくジャワ島の基地を発進しました

そしてこの日、戦闘が開始されました

日本軍は「満潮」が大破しましたが、連合国艦隊は国籍が違う同志のため連絡がうまくできず、日本の魚雷攻撃に翻弄されまくり

とうとう撤退したのです

2012年6月2日土曜日

国際勝共連合


第4回
共産主義は食糧生産をどのようにして阻害したか

いま世界中で食料価格が上がっています。気象の不順や途上国での需要拡大、そして投機マネーが流れ込み、それらが複合的に重なって価格が上がっているようです(「今日の視点」2月25日参照)。
 では、北朝鮮の場合はどうでしょうか。北朝鮮では1990年代半ばに大規模な餓死者を出したように、慢性的な食糧不足に陥っています。ざっといえば、年間500万トンの食糧が必要なのに生産能力は350万トン程度。つまり毎年150万トン足らないのです。これを中国から輸入したり、国連の世界食糧計画(WFP)から援助をもらったりして、しのいできました。金正日総書記は今年1月、在外公館に対して80万トンの食糧を確保するよう指示したといいます。80万トンといえば、北朝鮮が中国から昨年輸入した食料の5倍分に相当します。なぜ80万トンの緊急確保を命じたのかというと、諸説があります。3月から5月の食糧生産の狭間期に備えて準備する、いや、近く核実験をやるつもりで、そうなれば国際社会の経済� �裁は一層厳しくなるので、早めに食糧を確保しておく。そんな憶測を呼んでいます。いずれにしても人民のお腹を満たせないのです。

神格化された個人独裁と経済システムの欠陥

その原因は単に北朝鮮の土地柄だけではありません。かつて北京から高麗航空に乗って平壌に行ったことがあります。上空から目にした北朝鮮の大地は見るからに黄色っぽく、中国や韓国の黒っぽい肥沃な大地とは明らかに違っていました。金正日総書記が後継期に山の中腹まで開墾するよう命じたことが影響しているそうです。それによって山崩れが相次ぎ、土砂が川に流れ込み、川底はあがって洪水が多発し、田畑にも土砂が入り込みました。それで大地全体が黄色っぽくなっていたのです。
 おまけに金総書記は密植を命じたといいます。稲作で密植は禁物ですが、隙間があるので生産量が少なくなるとでも思ったのでしょう。首領様の指示には誰も逆らえず、密植によって生産量はさらに下がりました。そういうわけで北朝鮮の食力不足は明らかに人災、それも神格化された個人独裁による災害です。
 共産主義に基づく経済システムが食糧生産を阻害するケースもあります。その典型例が中国でした。文革後の1970年代に中国の農村部を視察したことがあります。人民公社の集団農場では人民はずらっと一列に並んで、鍬を下ろしています。そのスピードといえば、実にもゆっくりしたもので、働く気力がまったく感じられません。ところが、近くに自留地がありました。当時、わずかな狭い場所ですが、各戸に自留地が認められていたのです。そこでは夫婦がそれは熱心に、きびきびと働いています。人民公社の公設市場と自留地からの自由市場もそうで、公設市場は売る気がないのか、活気がなく静まりかえっています。自由市場のほうは「買って、安くするよ」といった掛け声が飛び交っています。いかに自由が活力を生み� �すか、共産中国で改めて教えられました。さすがに鄧小平は人民公社を潰してしまいました。

マルクス主義の僕だったルイセンコ学説

これに対して共産主義思想そのものが農業を壊す典型的事例が旧ソ連にあります。それはマルクス主義の弁証法的唯物論によってもたらされました。この考え方は「変化」を強調します。世界は不断に運動・発展していると捉えるのです。革命に誘うには、不易(変わらない)を言うわけにはいかないので、変化ばかりを強調するわけです。
 これを農業に持ち込んだのが、ルイセンコ(1898~1976年)という生物学者でした。彼はウクライナの農家に生まれ、キエフの農業専門学校を卒業後,アゼルバイジャンの農事試験場に勤務し、後にメンデル遺伝学を根底から否定する、新たな新しい遺伝学の体系を作りました。これがルイセンコ学説と呼ばれるものです。彼は事物の変化のみを強調する弁証法的唯物論を生物学にも適用し、ときの指導者スターリンの絶大な信頼を得ます。そして1930年代からソ連農業を指導するようになったのです。
 ルイセンコ学説の特異な点は、メンデル・モーガンの遺伝学説に公然と異議を唱えたことです。遺伝学説は形質が遺伝子によって子孫に伝えられるとし、遺伝子の不変性や種の不変性を主張します。これは事物の絶えざる変化や発展のみを主張する弁証法的唯物論とは相容れません。そこでルイセンコはブルジョア的・形而上学的学問として攻撃し、これを唱えるソ連国内の生物学者を粛清してしまいました。
 彼は秋まき小麦を春化処理によって春まき小麦に変える実験を通じて、環境によって生物の遺伝性が規定されることを明らかにしたと言い張り、遺伝学説を真っ向から否定したのです。小麦には秋にまく2年生と春にまく1年生があり、秋まき小麦のほうが収穫量が多いのですが、秋まきは冬の冷害にやられやすいという問題があります。そこでルイセンコは、秋まき小麦の種子を一定の期間冷蔵して(つまり、環境によって形質をかえ)春にまけば、その麦は実をむすび大収穫を得られるはず-と、主張したのです。これをスターリンが後押しして、1930年代から実に30年以上にわたって全ソ連の農業分野でルイセンコ学説が大手を振ってまかりとおったのです。

技術も人材も失ったイデオロギー至上主義の悲劇

2012年6月1日金曜日

アメリカ独立革命


アメリカ独立革命

 

「我に自由を与えよ。しからずんば、死を。自由は鮮血をもって買わざるべからず」

アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリ(1736〜1799)この言葉は、日本の明治初期の自由民権運動家のスローガンともなった。

 

 アメリカの13の植民地がイギリスからの独立を達成した革命。世界経済の成長期にあって、保護貿易の立場に立ち、輸出産業を育成し、貿易差額によって国富を増大させようとした近世国家の管理経済であるイギリス本国の重商主義的圧迫に対し、植民地側はボストン茶会事件や大陸会議開催などの抵抗を行い、1775年、戦闘に突入、翌年独立宣言を発表。1781年ヨークタウンの戦いで大勝し、1783年パリ条約により独立を達成、8年間の独立戦争は終結した。

 

イギリスの植民地であったアメリカが独立に立ち上がったきっかけは、つぎつぎに植民地に課せられた税金に対する不満からであった。

 

すなわち、「7年戦争」(1756年から1763年まで、プロイセンのフリードリヒ大王とオーストリアのマリア・テレジアとの間で、シュレジエンの領有をめぐって始まった戦争で、フランス・ロシアがオーストリア側、イギリスがプロイセン側についたが、インドやカナダの海外植民地でイギリスがフランスを破った)での莫大は負債を抱えていたイギリス議会は1765年3月22日、北米でのイギリス軍駐屯経費36万ポンドのうち、3分の1を植民地アメリカに負担させるために、商業上のすべて証書にはじまり、新聞・カレンダー・パンフレットからカルタに至るまでに印紙を張ることを義務付けた「印紙法」を制定する。