トルクメニスタンは最近まで観光客が入れなかった国であるから今回の旅行でも楽しみな場所であった。終身大統領になったニヤゾフ大統領の専制政治が行われているが、カスピ海沿岸で産出する石油のお蔭で中央アジア五ケ国のうちでは、カザフスタンについでGNIも1,120ドルとウズベキスタン、キリギス、タジキスタンを遙に凌駕している。現実にトリキスタンの都会地では今や、高層ビルの建設ラッシュで至る所に建設用の大型クレーンが林立している。
特に首都のアシハバードは丁度東京オリンピック前の東京都内の状況と似た活気に満ちていて、建設中のビルが夥しい数である。
一方で情報統制は厳しいようで、写真撮影については充分気を配らないと撮影禁止の場所が多数あるので思わぬトラブルに巻き込まれる虞れがある。
さてウズベキスタンのヒワの観光を終えてヒワのホテルを朝8時30分に出発して陸路、国境を越えクフナ・ウルゲンチを目指す長駆250㎞のバスドライブである。
綿花畑、小麦畑、草原をひた走り国境へは9時半頃到着した。出国手続きに約一時間を費やし、緩衝地帯をミニバンで移動し、トルクメニスタンの入国審査である。ガイドがくどい程に写真撮影をしないようにと注意する。たいしたトラブルもなく正午前には国境を通過し、トルクメニスタンに入国した。
国境近くのタシャウズでナディラ・レストランというところで昼食を摂った。サラダ、らぐまん、チキンと ビーフのグリルであった。赤大根を好んで食べた。ここでも恒例の人参の千切りが山ほどもでていた。葱や大蒜もサラダに添えられている。
タシャウズからクフナ・ウルゲンチまでの道中では車窓に、ガスのパイプライン、畑、驢馬の車、時として現れる砂漠を眺めながら移動する。大きな建物や検問所には必ず掲げられているニヤゾフ大統領の肖像画をいやという程見せつけられた。
現地ガイドの説明によればこの国では、ガス、水道、電気、塩は無償で国民に支給されるという。
遺跡のある場所クフナ・ウルゲンチに到着し、最初に訪問したのはトレベクハニム廟である。
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クフナ・ウルゲンチは2005年10月にユネスコの世界遺産に登録された。13世紀のモンゴル軍の侵略、15世紀のチムールの侵入により破壊されたが、ヒワに17世紀に遷都されるまではホラズム王国の首都であった。ヒワに遷都したのは1615年頃、アムダリア川の流れが変わり水がこなくなり沙漠化したからである。
クフナ・ウルゲチでは次いでクトゥルグチムールのミナレット、スルタンテケシュ廟、クルクモッラーの丘、イル・アルスラン廟、キャラバン・サライの入り口跡、ネジメッティン・クブラー廟、スルタ・アリ廟等を見学した。
クトゥルグチムールのミナレッ� ��
道路補修工事中のネジメッティン・クブラー廟(左)とスルタン・アリ廟(右)
再びタシャウズに戻り、深夜23時発のトルクメニスタン航空でアシハバードへ飛んだ。なにしろトルクメニスタンには航空機が七機しかなくこの航空機をやりくりしながら運行しているのでタイムテーブル通り飛ぶことは少ないようである。我々の搭乗した航空機も約一時間遅れの離陸となってしまった。
2006.4.28
昨夜遅くトルクメンバシ空港に着き、深夜にアシハバードのニサホテルに投宿したので、今日はいつもより遅い9時半にホテルを出発して現大統領の出身地にあるキプチャク・モスクへ向かった。
このモスクにはニヤゾフ大統領の両親と兄弟の墓がある。ニヤゾフ大統領は幼児に両親と兄弟を失い孤児になったが、類稀なる能力を認める人の援助で大学まで優秀な成績で卒業した苦学力行の人であった。肉親に対する情愛が厚く立派な廟を建てて故人の菩提を弔ったのだという。内装は豪華絢爛の一語に尽き、権力者好みの造りであった。砂漠では貴重品の水を噴水として巧みに取り入れた設計はまさに権力者の力の誇示そのものだと思いながら見た。
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ニサの遺跡は紀元前3世紀~紀元後3世紀にかけて営まれたパルティアの初期の首都で城壁に囲われていた。
ニサ遺跡の方形広場
新ニサ市街
国立博物館の一階展示室には大統領礼賛の展示物に溢れていた。受賞した勲章とか外国元首からの贈り物とか彼の著書などである。
二階の展示室にはニサ遺跡から発掘された有名な「ニサのヴーナス」、「象牙のリュトン」、メルブの仏像と彩色の壺、民族衣装等が展示されている。
ニサの遺跡を後にして再びアシハバードに戻り、中立広場で地震慰霊碑、黄金の大統領像、金のドームの大統領執務室、各種官庁の庁舎をバスの車窓より見学した。何故か大統領執務室の建物は撮影禁止である。
続いて郊外のトルクメンの名馬の飼われている厩舎を訪問した。汗血馬と呼ばれジンギスカンも欲しがったという名馬達である。アハルテケと現地語で呼ばれる名馬が約200頭保育されている。
続いてアナウ遺跡を訪れ見学した。
2006.4.28
アシハバードのニサホテルを早朝5:30に出発しトルクメンバシ国際空港へ急いだ。6:55には予定より5分早くT5127便は離陸した。空港は夜が明けたばかりである。マリイ空港には7:35に到着。尿意を催しトイレットを探して駆け込むと、これが観光都市の空港かと思う程の粗末さである。
8時には空港を出発してメルブ遺跡を目指してバスはひた走った。車窓にはカラクム運河、ザ・カスピ鉄道なども目撃することができた。
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メルブ遺跡には8:45に到着。この遺跡はBC6世紀ころから営まれ初め、最盛期は11~12世紀であった。彷徨える遺跡という別名があるように、この遺跡にはゾロアスター教、キリスト教ネストリュウス派、イスラム教、仏教と、いくつもの世界宗教がその興亡の歴史を刻んだ所である。13世紀にはモンゴル軍が80万人の軍勢で攻め寄せこの都市を破壊し尽くしたという受難の歴史ももっている。その当時メルブ周辺一帯には130万人が生活していたという。
2006.4.28
スルタン・カラ内のスルタン・サンジャール廟(12世紀)、エルク・カラ(BC6世紀)、グヤウル・カラ(BC6世紀)、ベニ・ハマンモスク、仏塔跡、大キズ・カラ、小キズ・カラ、ムハンマド・イブン・サイード廟(12世紀)、この廟の墓守の住居を見学してから、マリイ市のヘキシャヘールレストランでトルコ料理の昼食を摂った。豆スープ、トマトソース添えのケバブである。
スルタン・サンジャール廟
エルク・カラ
ムハンマド・イブンザイード廟の墓守の老人
昼食後、マリイ博物館を見学した。ここにはメルブ遺跡の見取り図、出土品、トルクメン族の生活の今昔などが展示されている。
マリイのバザールも覗いてマリイのホテルマルグーシュに投宿した。
2006.4.29
翌朝8時にはホテル・マルグーシュを出発し、一路ウズベキスタンのブハラ目指して385㎞のバスドライブである。
アブラハン・カラ(15世紀)、バイラム・カラ(18世紀)を通り越してカラクム運河の近くで休憩した。後はカラクム砂漠の風景を眺めながら終日のバス移動である。
トルクメンアバードのレバブ・レストランで摂った昼食は米のスープ、牛タンと茸のチーズ焼き。これは美味しかった。
乗り物に終日乗っていると運動不足になるので国境近くのアムダリア川を徒歩で渡った。橋や河の撮影は固く禁止されているので写真を示すことができない。
国境ではトルクメニスタン側は簡単に出国できた。ウズベキスタン側の入国手続きを終えてでてきたところ、迎えのバスがきていなかった。何か手違いでもあったのではないかと情報の入らないまま、約二時間近く、入国管理所構内で無為の時間を過ごした。後で判ったことだが、ウズベキスタン側の現地ガイドがトルクメニスタンのビザを持っていないので入国管理事務所へバスを乗り入れることができなかったのだという。国境なので携帯電話も電波の規制を受けているらしく、バス備えつけの無線電話とのトランシーバーでのやりとりであったためなかなかコ ミュニケーションがうまくいかず、バスも無為な時間を過ごしたらしい。
この道中でもニヤゾフ大統領の肖像画、と銅像をもう沢山といいたい程、何回も建物の壁面や検問所のゲートに見かけた。
また朝は道路を掃除する人々をあちこちで見かけた。イスラム教徒の人々は清潔好きである。そして薔薇の花が好きなようだ。
編集者 注 専制強権独裁政治をほしいままにしたニヤゾフ大統領も本年2007年逝去した。
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